五の章  さくら
 (お侍 extra)
 




     料 峭 〜その一



 痛いほどの強さで頬を叩く髪を押さえ込んで、空気の圧が総身へ張りつくよにして行く手を阻むのを、無理から突き破って風に乗る。衣紋がばたばたとたなびき、風籟が尾を引いて置き去りにされた不満を鳴らすのを背後に聞きながら、穹を自由に翔るのはいつだって爽快だ。街の上空では、いかにもな生活臭や排熱臭もするけれど、それだけじゃあない匂いもあって。荒野からの風が運ぶのだろ、乾いた空気が頬に当たって心地いい。そろそろ春めきも増す頃な筈が、ここ何日かは少しだけ冷えが戻っての冴えた風が吹く。春が近づくと一度うんと寒くなるもんなんですよと、教えてくれたのは七郎次だ。辛夷だの梅だの沈丁花だのは、暖かさに誘われての少しずつ目覚めて咲きますが、さくらは一度キュッと冷え込むことで春が近いと知るそうで。何でも知っている博学さに、眸を丸くして聞いておれば、

 『…なんてね。これって勘兵衛様に教わったんですけれどもね。』

 意外でしょう? あれで花の名前とかお詳しいんですよと、くすすと楽しそうに微笑っていたっけ。





   ◇◇◇



 大戦の頃の舞台とは、背景も装備も状況も戦力も、付随したものが全て違った とんでもなく最低な代物ではあったけれど。限界の設定のない、強いて言えば…死にに行く訳じゃあないけれど生きて帰れるとも思うなという、絶対不利なことだけが明らかな。当たって砕けろな戦法での殴り込みとなった、あの都との決戦で。そうまで異なる付帯状況全てを理解した上で、それでも妙に心が騒ぎ、全身がこれまでで最高の躍動を発揮していたと思う。ただ錯綜の中にこの身を投じられるだけの、道具のような兵器のような存在として修羅場へ向かった訳じゃあなくて。

  ―― 一丸となったうちの誰でもいいからどこまでも遠くへ
      折れぬままに翔け、目的を打ち払えればそれでいいと。

 そんな戦法の中にあり、確たる一翼を担うこと。数の上での“代わりがいない”という話じゃあなくて、飛び抜けた滑空能力と刀さばきの冴えにて、群れなす機巧躯の敵をどこまでも刻める腕を買われたからこその役割を担わされており、それを自覚した上で自分から“出る”と飛び出した。あの圧倒的に不利な状況下、突入班の加勢をしたければそっちを片付けてからだと言いたげな、いかにも不敵な笑みに見送られてだ。頼るのでもなく凭れるのでもなく。互いを認め合っての後は任せた上で、心置きなく飛び出しただなんて…そんな方向で戦火へと身を投じたなんて、思えばこれまで一度もなかった。久蔵が参戦した頃といえば大戦も終盤期で、戦域も拡大し、戦いようも凄惨を極めていたからではあったけれど。触れるもの皆 切り払い薙ぎ倒し、冷静に冷めたまま、そのくせ歯ごたえを求める狂犬のようになって戦場を駆け、相手陣営を殲滅することでようやっと立ち止まる。かつての大戦では、そんな戦い方しか知らず、そんな戦いようの中、いつだってくすぶる何かに餓えを感じてばかりいた。経験値を積んで腕が上がればそれだけ、相手がどれほどの猛者であれ物足らなくなってゆく。力の流しよう、速さへの躱しようを身につけ、どんな間合いで踏み込んで何合切り結べば相手の太刀筋にどんな隙が生じるか、懐ろへ飛び込めるかが、考えるまでもなく体現出来るほど身について。天賦の才が、遺憾なく育まれてのその結果、途轍もない速さで侍としての完成をみた筈が、その途端に肝心の戦さが終わってしまい。脂の乗り切った刃は、だのに斬るべきものを失い、誰より高く舞えた翼は、なのに制する空を奪われてしまって……。

 『………。』

 そんな久蔵にしてみれば、無能な有象無象が大挙して襲い来るその数を打ち払うのみという野伏せり戦なぞ、どこにも面白味のないばかりの下らない代物だとしか思えなかった筈だのに。

 『お主、侍か?』

 体力も反射も年のせいで少しは衰えていたはずが、巧みに対等の抗戦を繰り出して、しまいには互角に留めてしまえた勘兵衛の、軍師として惣領としての底の深さをも、ますますと久蔵に思い知らせたのがあの大混戦であり、

 「…。」

 そして、そんな勘兵衛を久蔵は捕まえてしまったのだと七郎次は言っていた。誰にも捕まえられない、風のようなお人。久蔵が練達との立ち会いに飢えていたのとは微妙に異なるが、それでも、それなりの器だと認めたからこその関心が湧き、それがそのまま放っておけぬという感情を育んだのだろと。やわらかく微笑ってそれを欣幸としていた古女房だったけれど。
“………。”
 だが、果たして本当にそうだろうか。勝手に発たずにいてくれるのは、久蔵との約束が果たされていないからというだけの話なのかも知れず、関心を持ってくれてのことだとしても、それではまだあの男の、ほんの端の方を掴んだ程度じゃあないかと、そんな気がしてしょうがない。こんな風に想いをとらわれていること自体、まんまと搦め捕られている証左でもあり、だが不思議と不快ではない。まったくもって老獪で狸な壮年だと、つい思う。

 「…久蔵。」

 さんざ叩きのめした襲撃犯らは余さず縛って警邏隊に引き渡したが、万が一にも出遅れた面子の取りこぼしが居残っていて潜んでいはせぬかと案じてのこと。一応店の周辺を見て回ってから、帳場まで戻って来た若いのへ。襖や障子が破れた後片付けにと店の者らが騒然としている中、小さめの畳の間、狭い座敷のような帳場で若主人と向かい合っていた壮年殿が視線を留めると声を掛けてくる。片付けの勝手がいいように、煌々と灯された明かりの中。特に急いでもいない、表情や態度にも変化のないところから、案じることはなかったらしいと読み取って、辿り着き切る前にも立ち上がった勘兵衛であり。そんな彼の裳裾の長いいで立ちを見上げつつ、七郎次が問いかける。

 「離れは壊れちゃあいませんので?」
 「ああそういえば、濡れ縁の障子を内から破ってしもうたかな。」

 侵入して来た賊どもを、超振動にて一気に吹き飛ばしたその折に、そこまで腰が軽い相手だったとは露知らず、外へまで吹っ飛んでいった連中の巻き添えになって二間分の障子が四枚、枠や骨ごと折れての壊れたはずと、少しばかり恐縮を滲ませての苦笑をした勘兵衛へ、

 「でしたら、今宵だけは別の離れをお使い下さいまし。」

 その間に片付けておきましょうと、にこやかに微笑った七郎次が案内
(あない)に立つらしく。主従ともども立ち上がったのを廊下で待ち受け、物騒な気色にて賑やかだった一夜の終焉、共に退いての幕引きと運ぶはずが、

 「……っ!」

 ほんの微かな、素人では嗅ぎ取ることさえ出来なかろうそよぎを感じ、玄人のもののふであれ、それへの俊敏な応対は生半ではなかったろう、鋭利にして強かな一閃が眼前へと振り下ろされたのを。さして大仰じゃあない微かな所作、腰に差し直した大太刀の柄、心持ち強く握ることで がっしと受け止め切った勘兵衛であり。
「…久蔵殿?」
 先を進み掛けていた七郎次が、彼もまたすぐ背後での気配にギョッとして立ち止まり、そのままその視線を傍らの紅衣の侍の白い顔へと差し向ける。やっとただならぬ騒動が治まったばかりだというに、しかも身内味方の勘兵衛への攻撃とは。一体どういう料簡での抜刀かと、信じられぬものでも見るような顔になったものの、

 「…もう右も振れる。」
 「だから、装具は要らぬと?」

 はい? 言われて見下ろせば、確かに右の手で握られている刀ではある。そこから依然として力を抜かぬままな久蔵は、だが、さして険はないお顔をしており。こんなとんでもない“悪戯”を受けて立った勘兵衛の側もまた、しようのない奴よのとでも言いたげに、その口許へ苦笑を浮かべているばかり。唐突な凶刃を、避けるには間に合わぬと一瞬で断じ、得物の柄という一点で受け止めて防いだ勘兵衛で。この壮年殿にそんなギリギリの防御を選ばせたまでの、冴えや速さは確かに戻ってもいようが、

 「…っ!?」

 こちらは太刀を抜けぬ体勢へ持ち込まれている勘兵衛、しかもそれは久蔵の立つ側でもあって、何をするにもちと遠いようにと攻め手を封じられていた筈が。それらを嘲笑うかのような不意打ちで、久蔵の右腕の付け根、肩口を前からどんと突いた衝撃があって。不意を衝かれてとそれから、やはりまだ少しほどは肉の付きようが劣ってのこと、がつんという痛みが走ってだろう眉を寄せ、怯んだように手から力が抜けてしまう若いのであり。

 「な…。」

 あまりに素早く即妙な畳みかけ。何がどうしての展開かを追うのがやっとだった七郎次は、視線は彼らの上へ据えたまま、自分の懐ろへと手をやった。大戦のおり、槍という長い得物を扱う彼は、太刀を使わぬ折は、槍への添えとして接近戦用の小太刀を懐ろに常に備えていて。その名残りからか、この遊里にあっても朱鞘の匕首を腰の帯にさりげなく差していたのだが、それを探ってみた手には何も触れないままだ。久蔵の肩口を衝いたものこそ、その匕首。彼もまた結構な反射で、向背に沸き立った殺気へと振り返った七郎次の懐ろから。あっと言う間に抜き取って、鞘のまま勢いよく、狙い定めて投げつけたことでの形勢逆転。常に張り詰めているのではなく、ただ、その刹那刹那にこうまでの、無駄のない対処が取れる勘兵衛なのであり、

 「まだまだ本調子とは言えなかろう。」

 目許をゆるくたわめて小さく微笑う壮年へ、
「〜〜〜〜〜。」
 少々膨れつつも、久蔵がやっとのこと、自分の太刀を鞘へと納めて見せた。勘兵衛と居並び、勘兵衛からの声掛けへ むうと膨れたり視線を逸らしたり。彼らの間にあるのは単なる経験値の差のみであって、従うというのとは違う、対等な立場で向かい合っている同士なのだというのがありありと判るやりとりで。これが格下からの、それも単なる“養生を優先なさい”とだけの言われようならば洟も引っかけまいに、勘兵衛の言いようだから聞こうとする久蔵なのだろう。いやさ、そもそも…やりようは乱暴ながらも、装具を解いてもいいかと、若しくはその延長として日頃の習練もどきの手合わせも二刀で対していいだろかと、わざわざ訊くのからして、一目置いている相手だからこそのことではなかろうか。本人にはそこまでの理
(ことわり)の流れ、恐らく意識してはないのかもしれないが、だとすれば尚更に、久蔵にとっての勘兵衛は、誰から言われずとも、若しくは自分で自分を律せずとも、当然ごととして こうせねばと思わせただけの存在だということで。そして、


  “………ああ、そうなのか。”


 同じことが勘兵衛にも言えるのだと、七郎次は気がついた。危なっかしいから自分がついててやらねばと、そんな言いようをした彼だったけれど。この期に及んでも七郎次に全てを言わぬか、それとも本人も気づいてはいないのか。勘兵衛の側からも、少なくはない関心を持って接したその取っ掛かり。練達の士を集めていたからという背景がなくともきっと、心惹かれた相手だったのではあるまいか。始まりこそ、太刀さばきにおいてのものだったのかも知れぬが、気性や生きざまやらに触れるうち、その関心がどんどんと深まった末の、この眩しげな眼差しなのではあるまいかと。思うと同時に、勘兵衛自身にも知らしめてやった方がいいのかどうか、困ったような苦笑でもって、戸惑ってしまった七郎次でもあったのだけれど……。






    ◇  ◇  ◇



 あんな騒ぎがあったことが、されど公けには取り沙汰されることもなく。翌日にはもう、いつもの顔でのんびりと、支度や何やに動き出してた蛍屋であり。あのような修羅場へ、間が悪くも逗留なさってたお客たちも、大事はなかったのみならず、颯爽痛快な賊退治の現場に居合わせたことを自慢こそすれ、店を悪く言う気配はない模様だと。彼らを直々に表から送り出した雪乃がさっぱり笑って告げてくれ、

 「離れの方も昼までには片付きますので。」

 それまではこのお部屋で我慢して下さいませねと。母屋からは ちと離れたところになってしまうが、二人が使っていたのと作りは似ている、二間連なりの別の離れで寛ぐ侍二人へ、愛想たっぷりの笑顔を向けた。働き者で細々したところにも眸が届き、そのくせ、気っ風もよくて鷹揚で。この可憐な細い身で、癒しの里随一の料亭を支えている気丈夫で。生命維持装置に入ったまま拾われ、時間に置き去られた身だと知らされた七郎次が深い失意にあった間も、彼女が一心に支えたのだというのがようよう納得出来もする。十分眠ってのちの朝餉も済んだひとときを、お膝を突き合わせての談笑にほころんでおれば、

 「雪乃。」

 母屋の方から庭を横切り、七郎次がやって来て、
「お梅ちゃんが戻って来たらしいぞ。」
「あらやだ。あの子ったら昨夜のあの騒ぎん中、表へ出てってたらしくてねぇ。」
 無事だったんなら重畳ではありますが、それでも一応はクギを刺しとかなきゃだわねと。ころころと軽やかに笑って言って、それではこれでと一礼し、七郎次と入れ替わるように母屋のほうへ去ってゆく。春も間近な穏やかな朝。どこからかまだ幼い鳥の声なぞ響いて来、こんな下層にも来る鳥がおるものか、さて もしかしたら何処ぞかの太夫が部屋で飼ってる子かも知れませんが、などと。他愛ない話をどれほどか連ねての果てに、

 「湯治?」

 昨夜のうちに七郎次が勘兵衛へと勧めた話をあらためて持ち出せば。こちらさんは今初めて聞くぞと、紅の眸をしばたたかせて、どこかキョトンとしたお顔をして見せる久蔵だったりし。
「あらまあ。勘兵衛様、少しほども話しておいでじゃなかったのですか?」
「うむ。うっかりとな。」
 行楽の響きも匂う そのような旅には、戦中は勿論のこと戦後もとんと縁がなかったせいもあって。当人からしてすっかりと忘れ去っていたらしく。
「いえね、久蔵殿の腕の快癒や、勘兵衛様ご自身の羽伸ばしも兼ねてのこと。虹雅渓から発っていかれるというのなら、そういうところへ向かわれてはどうかと、昨夜そんなお話をしていたのですよ。」
 その腕がもう完治したぞよとの試し切りの真似ごとを披露したところが、勘兵衛からまだまだ甘いとあっさり返り討ちに遭った身としては、
「〜〜〜。」
 その場に七郎次も居合わせた以上、余計な世話だと取り合わない訳にもいかないことは判っているようで。口許をきゅうと閉じての、複雑そうな表情になってしまった白面の愛し子へ、

 「そういえば、久蔵殿はカラスの行水ですものね。」

 でも、治療のためのお風呂なんですから、ちゃんと長いこと浸かれるようになってなきゃあねぇと。心なしか頬を膨らませているように見えた次男坊の、ふわふかな髪に手を当ててやる。手入れの甲斐あって、そりゃあふわりとして心地のいい手触りとなった金の綿毛は、子犬や子猫といった幼い生きものの頼りない温もりを、七郎次へ想起させもした。刀を振るえば怖いものなしなお人ですのにね。なのに、こうやっていると胸を拉
(ひし)がれてのこんなにも切なくなるのは、一体どうしてなのだろか……。





     ◇  ◇  ◇



 ここへ居残る身となることを選んだは自分。口にした経緯だけを見れば、強制的にという趣きもなくはなかったが、強く押し切れずの迷った時点で自身の中にそんな答えがあったのだと判るから。だから…言い訳は出来まいし、するつもりもなくて。


 「ほらほら、まだ滴が垂れておりますよ。」


 日頃はまだ装具を外してはならぬと言われてしまった久蔵だったが、さすがに風呂や着替え程度のことへは、利便を優先して外していても支障なく。それでも動かしにくかろうと、髪や背中を洗うのへは、相変わらずの過保護さからか七郎次が常に付いててやっており。今日も今日とて、夕餉を前にひとっ風呂をという、もはや此処での習慣となった早めの入浴を済ませたばかり。白磁の頬に朱が昇っての、目許も微妙に とろりと潤ませて。ほんのりと赤らんでいるお顔も愛らしいことよと見ほれてのそれから。汗止めのゆかたの上へ宿着の小袖を重ね着て、それではと離れへ戻ろうとする身を、ちょっとお待ちと引き留める。脱衣場の籐の床几へ腰掛けさせると、まだまだ水気が拭い切れてはいない髪、タオルをかぶせてぽふぽふと手を掛けてやるのもまた、いつもと同じ世話焼きのうち。すっかりとお任せになっての空いた手を、最初はお膝の上へと乗っけていた久蔵だったが、しばらくすると右の肩口を、何の気なしにだろう撫でており。昨夜 勘兵衛から匕首をぶつけられたのが仄かに痛むのか、それとも…歯痒いなと感じてのことか。お顔がタオルの陰になってしまっては、いかな七郎次でもその内心までを読むことは難しかったけれど、

 「焦ることはありませんよ?」

 じっくりと養生すればいいんですと、宥めるような声で言う。まだ春と呼ぶには早い頃合いの、それでも随分と長くなった夕暮れ前。湯殿と同じ桧の香が仄かに匂い立つ脱衣場は、引き違いになった連子窓から斜めに差す光に照らされて、色合いもまた暖かな空間と化しており。そんな中へ、



  「勘兵衛様を、どうかよろしくお願いしますね?」



 静かな声は、湯気の匂いが垂れ込める室内にするりと飲み込まれてゆく。空耳にしては、くっきりとしたそれであり。それに…久蔵には、そんなことを言い出す彼ではないかという、最悪の予感も実のところは抱えてもいて。それがとうとう現実のものとなった途端、曖昧な不安は堅くて冷たい壁となる。心蓋がれるような想いを意識しながらも、

 「ど、うして?」

 顔を上げ、訊いていた。だって、この人は他でもない島田勘兵衛をただただ待っていたのに?
「島田を待っていたのだろう?」
 再会出来てよかったって。あれが夢なら、こんな酷いことはないって言っていたのに。なのにどうしてと、詰め寄るような眸をしたが、

 「一緒には行けません。」

 タオルをその手へと引き取りながら。七郎次の口からは、そんな言いようが出て来るばかりだ。実を言えば、正確なところは七郎次にも上手く言える自信がない。この身一つで追っても構いはしない筈なのだが、自分は選んだ。此処に居残ると。昨夜のやり取りにてのその言は、勘兵衛の誘導に乗せられたようなものだったのかもしれないが、形ある言葉としての選択をし、決定を下したのは他ならぬ自分なのだし。それに…居場所がある者へ浮草暮らしに付き合わせるつもりはないという、勘兵衛からの意向、心遣いは、重々と届いてもいて、

 “……ひどいお人だ、相変わらず。”

 自分のようになるなと、そう言いたいのかあの人は。そして、なのに久蔵は連れて行くというのか。勘兵衛自身とあまりに似た青年。侍以外になり得ない、あちこちが欠落している和子だから、ともに埋め合えればとでも思うのだろか。そして、その当の久蔵はといえば、何とも悲壮な眸をして自分を見やる。

 「シチは…島田の傍にいたくはないのか?」

 だってあなたはあの男の影のように、それは見事に対
(つい)を成していたじゃあないか。まるで何度も何度も打ち合わせがあったような、それは自然で鮮やかな呼吸の合いようを知っている。ここへは彼がこのような穂先を繰り出して来ようぞと見越すことで、数歩先の切り結びへと一気に詰められる、一人では出来ないほど厚みのある、変幻自在な太刀ばたらきを繰り広げられる爽快感は格別だろうし。逆に言えば、見込んだ相手から、そんなして要所要所を任され、そこへすぱりと自分の動きが見事に嵌まることがどれほどのこと心地いいか。相手が練達であればあるほど難しいはずの呼吸合わせを、10年もの空隙(ブランク)を経てもあっさりとこなせていた彼らではなかったか?

 「あいつの背中を守らいでいいのか?」
 「……。」

 あなただって もはや骨の髄まで侍なくせに。介添えの刃、他人に任せて、それでいいのか? と。無垢ゆえの真っ直ぐさで訊いて来る彼であり。そんな久蔵のそりゃあ真摯な赤い眸を見つめ返しつつ、
“私はどうやら、勘兵衛様を恋情沙汰からお慕い申し上げてた訳じゃあなかったのかも知れない。”
 七郎次の側はそんなことをまで思っていた。だってほら、こんなにムキになってもうと、久蔵殿もまた可愛くってしようがないんですものね。不器用同士なお二人のありように、しょうがない人たちだなぁと焦れったく感じさえしたのだし。失った六花、生き別れになっていた10年間。そんなことは関係なく、変わらぬ信頼をおいてくれた勘兵衛がやはり愛しいし慕わしいが、ここも昔と変わらずにと構えていたのが、決して1つにならぬよう、つかず離れつで寄り添う呼吸へだったと思う。誰にも捕まえられぬ人。その背中を預かりはしても、こちらからは怖くて背中を向けられなかった。だって自信がなかったから。捨て置いてほしいと望みつつ、でも。背を向けたら怖くなる。振り返ったそのときに御主がいなかったらどうしよう。そうと思うと怖くて怖くて、意識のうえで目が離せなかったことまでもを思い出したほど、あのお人は変わってなかったのだけれど……。

  そう。

 意外な形で再会が叶った御主は、相変わらずに誰にも踏み込まさせぬ頑ななところを残しつつ、されど、ちょっぴり奇矯な青年を、危なっかしいなと見守っておられて。聞けば、その腕を見込んでのこと、自分との決着をつけたければ…と、ともすれば唆
(そそのか)すように誘いをかけたのだとか。野伏せりとの戦さを前にし、練達を集めていた時期だったから…だというだけでは収まらぬ関心の寄せ方だと、遠く長く離れていても判る自分にこそ、どれほどあのお人を読める身であることかと、呆れたもんだと少々自嘲したくらい。

 「勘兵衛様は、そりゃあ色んなものを負っておいでで。」

 人斬りの罪をもはや拭えぬ自分の業としているお人。しかも、部下の心にまで修羅を飼わせた罪をも負ってか、人としての幸いに背中を向けて、ただただ歩み続ける人で。

 「だってのに、
  ああまで広いお人、お強いお人なんですもの、参っちまいますよね。」

 斬り込み専門の斬艦刀部隊を率いていた人で。先鋒を務め、撤退時には退路を開くのが主という、会戦中の戦域やそのあとさきを考えるだけで精一杯だった筈の部署に長くいて、なのに、途轍もなく広角に大局を見据えられる目を持っており。随分と後になって、ああこういうことだったのかと気づかされるような布石を、やすやすと打っておける強かな人。そんなところは 今なお健在なようであったけれど、

  でも、やっぱり、

 孤高の人であり続けるのを見ているのはつらい。その背中が、後ろ姿が、寂しげでしょうがないと思うのは、自分は人に囲まれてぬくぬくといた故の驕りだろうか。戦さで已なくその身のうちへと飼ってしまった修羅を、忘れたり埋もれさせたりし切れずに、亡くした朋輩らの無念ごと、そやつもまた懐ろ深くに息づかせたままでいるお人。こんな鬼、安息の世には無用の存在と、彼もまた利他的な物の見方しか出来ぬまま。人へは忘れてしまえと言うくせに、侍なんて終まい
(しまい)にせよと、そんなお顔をするくせに。自分はいつまでもその暗渠に身を置き続ける、何とも悲しい嘘つきで。


  そんな勘兵衛を、身も心も捕まえたお人がとうとう現れたのだ。


 真っ直ぐに見据えられていることへ、彼にはめずらしくも怖じけたものか。ふいと視線を落としてしまった久蔵で。

 「窮鳥を匿うておるだけなのやも知れぬ。」

 ぼそり、そんな言いようをするところもまた かあいらしくて。
「そんなことはありませぬ。」
 七郎次はかぶりを振ると、細いあごへと手を差し伸べ、ほらお顔を上げてと促して。

 「忘れましたか?
  久蔵殿が“俺のものだ”と言ったおり、勘兵衛様はたじろいでしまわれた。」

 都との戦さを終え、左腕への治療を済ませたおりのこと。彼との立ち合いを妨げていた先約の“仕事”、もう終えたのかとぽつり訊いた久蔵へ、是と応じた勘兵衛だったのへ。そんな発言をし、精一杯の力でしがみつかれて。

 「あの勘兵衛様ですよ? 笑って取り合わないという手だって打てたはずです。」

 刀としか生きられない、不器用者同士として。共鳴するものや愛しいと感じるところが、既に勘兵衛の裡
(うち)にも多々あったに違いなく。そんな久蔵からの懸命な手、振りほどけなかった彼なのが、もはや逃れられぬ相手だと諦めての降伏を認めた証左ではあるまいか。だから、決めたのだ。


  「勘兵衛様を、どうかよろしくお願いしますね?」


 そうと、久蔵殿へ告げようと。





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  *あああ、書いても書いても終わらないし、
   何だか堂々巡りをしてないか? 自分。
   これでまだ前半です。
   親離れ、子離れの段、もちっとお付き合いくださいませ。


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